宍戸克美さん(宮城県丸森町在住・農家)

宍戸克美さん(宮城県丸森町在住・農家)

丸森町で生まれ育ち、現在は奥様と農業を営む宍戸克美(かつみ)さんを取材しました。宍戸さんは農業を営む傍ら、町内外の様々な有志プロジェクトへも参加し精力的に活動されています。宍戸さんの幼少期のお話から、令和元年東日本台風発災のあのとき、いま、これからを伺いました。

丸森町生まれ、丸森育ち。根っからの丸森っ子

丸森町で生まれ育った宍戸さん。思い出に残っているエピソードなどはありますか?

3人兄弟の長男として生まれ、実家では稲作や養蚕などを行っていました。

小さい頃の遊びといえば、里山に入って遊ぶこと。山には沢山の発見があり、行くだけで探検になるんです。年齢問わず近くの子供たちと一緒に里山に行っては、新しい遊びを作り出して遊んでいました。

例えば、岩の割れ目が洞くつのようになっていて、その中をほふく前進をして入ったり遊び道具も自分たちでつくり、ソリを手作りしたりと色々していましたね。冬場は田んぼがグラウンドにもなり、野球の三角ベースをしたりして遊んでいました。
自宅にいる時は、農業の手伝いをしていました。

現在は農業を営んでいらっしゃるとのことですが、以前はどういったお仕事をされていましたか?

高校卒業後は宮城県南部2市7町の広域消防に入りました。火災時や交通事故などの救助、工場等の建物へ立ち入り危険物に関わる仕事など様々な仕事を行いました。仕事を行っていく中で「こういうときは事前に覚悟を決めておかないといけない」と感じる場面も多かったですね。
広域消防には定年まで勤めました。自分自身が納得のいくまでやりきりたい、という一心で最終日の3月31日まで出勤をしたんです。

退職後は広域消防の知見を活かした仕事につく選択肢もありましたが、全うしてやり切った後、一度リセットしたいという気持ちがありました。一方で農と食にもともと関心をもっていたこともあり、農業を始めることにしました。

あのとき

令和元年東日本台風が来る前の動きを教えてください。

私は五福谷川という阿武隈川の支流になる小さな河川沿いに住んでいますが、数日前から台風の予報は見ていたものの、初めは自分自身が避難するという発想はありませんでした。なぜなら自宅近くの堤防は、過去の大雨時に堤防ぎりぎりまで河川の水位があがったことを加味して1mのかさ上げがされていたからです。

しかし、11日ごろに見たニュースで危機感を持ちました。昭和33年に丸森の近くを通った「狩野川台風」と同じようなルートを通る可能性があるというニュースです。私自身も当時の台風を記憶しており、「これはまずい」と思いました。そのニュースを見てからはインターネットで上流域の雨量や雲のレーダー、阿武隈川の水位情報などを確認しながら過ごしました。

避難勧告が発令された12日から翌13日の、ご自身やご家族の動きを教えてください。

12日

12日の午前中はいつも通り普通に過ごしていました。午後から雨脚が強くなってきたので、インターネットで上流域の雨量計や河川の水位データや町の災害情報などの情報収集を始めてはいたものの、避難するまでには至っていませんでした。

夕方から上流域の雨量計のデータが一気に上昇し、そこで一気にスイッチが入りました。仕事柄もともとこういったデータを見ていたので、雨量データの変化には敏感だったと思います。また当時消防団の活動でパトロール中に立ち寄った息子からもあちこちが冠水しているという情報を聞き、これは普通ではないという判断になり、家族みんなで避難をする決断をしました。

避難をするタイミングで、避難場所は決まっていませんでした。それぐらい切羽詰まっていました。何かあっても車中泊ができるよう、毛布と着替えを車に積み、総勢6人、車4台で避難をしました。車は一台につき1人~2人乗るぐらいがリクライングで休むには丁度いいんです。車に乗り、いつもの道路へ出て驚きました。既に道路はタイヤの半分ぐらいまで冠水していました。その後、たまたま会った知人ご夫婦の自宅が近くの少し高い場所に建っていたため、そこへ避難をさせてもらいました。

13日

翌日、水が引き、自宅に戻ると、自宅裏の堤防が70~80mほどにわたり決壊。自宅の1階部分、畑、作業小屋も浸水し泥がたまった状態に。作業小屋は屋根が低い部分があり、2階まで冠水をしていました。

▲作業小屋では、定規で指している色の変わり目まで水が上がった

被災して当日・翌日は、とにかくやることが沢山あり何から手をつけていいか分からない状態を過ごしました。しかし、3日目か4日目には一歩一歩ゆっくり進むしかないとふと思い、家族みんなで「一歩一歩だな」とという言葉を伝え、少しずつ進んでいこう、慌てないでやっていこうという想いを共有しました。家族と話す時間は大事でしたね。この時間があったからこそ、前を向いて家族一緒に復旧活動をできたんだと思います。

ボランティアセンターの会合など、町全体の活動へも参加されていたと伺いました。
ご自身も被災され大変な中、どのような想いで活動されていたのでしょうか。

おそらく元の仕事柄もあり、ボランティアセンターから会合へ参加しないかと声がかかりました。ボランティアセンターには非常に多くのボランティアの方が来て下さる一方、町内の被害状況を正確に把握してボランティアの方を派遣するマッチングの部分が難しいようでした。私は被災したからこそ個人としても地域としても「誰が困っている」「いま何の物資が欲しい」など具体的な現地の声を発信し、円滑な運営ができるようになればと思っていました。

また自宅へも、被災の翌日(13日)には3人、友人夫婦が道路が冠水して来るだけでも一苦労な中、水を持って来てくれました。あのときは断水していたので、とても有難かったですね。その後も多くの方がボランティアに来てくださりました。一番遠くて台湾からもボランティアの方々がいらっしゃいました。彼らは台湾地震の際に日本からの受けた支援の御礼として、日本へ駆けつけてくれました。本当に有難いですね。

私自身は、自宅以外にも神社や近隣の堤防に漂着したゴミや流木拾いなどの活動へも参加していました。


▲作業小屋に飾られる、ボランティアの方々との記念写真

その後新型コロナウイルスが日本でも徐々に広がり始めボランティアの方もこれ無くなり、途中からは作業小屋で一人作業をすることもありました。その時は疲れてしまいましたね。自分自身の中で復旧作業が「終わった」という区切りのタイミングはなかなか来ませんでした。作業小屋が今の形になったのは、今年の春ぐらいです。ちょうど農業も忙しくなってきたので作業を終えました。

いま

2年が経とうとしている現在。どのような生活、活動をされていますか?

今は自宅も作業小屋もある程度復旧をし、使えるようになった田畑で野菜作りを始めています。田畑の中には台風で1m50cmも土がかぶってしまい根腐れし、未だ農作業に使えない場所もあるので、日々有難みを感じながら野菜をつくっています。
農業は最初から最後まで自分たち自身で完結するため、大変さもありつつもそこから得られる充実感に魅力を感じています。

他にも台風の被災後の町の検証委員や地域防災計画見直しの検討委員にも、広域消防で勤めていた経歴もあって声を掛けてもらい参加しています。
台風での被災から「防災推進」というテーマでSNS等で情報収集をしている中で、有識者の方と繋がったりするなど、新しい出会いもありましたね。

▲宍戸家の畑で育った茄子

これから

これからの丸森町にとって大切なことは何だと思いますか?

丸森町は里山を源にして成り立っている町だと思います。その自然を大切にしていくことが大切だと思います。農林業なども含み新しい様々な仕事から新しい価値観を作り、魅力ある町になってほしいと思います。交流人口、関係人口も、移住者も増えてほしいし、根底にある里山の良さも保ちつつ、色んな価値観が生まれてほしいなと思います。

ただ里山へ行くきっかけは昔に比べ減っていることも実感しているので、なかなか難しいですね。

宍戸さんご自身は、これからどのような活動に力を入れていきたいと思っていますか?

私自身はこれまでも里山歩きの案内をしていたので、さらにその活動をしていきたいと思っています。現在はコロナの影響でなかなか広げられずにいますが、今後も継続してやっていきたいと思っています。

「里山」とは良い言葉ですよね。里と山がうんと近くてそこに人が入り込む、自然と人の関わりが深い場所なんです。

これからも一歩一歩活動をし、里山を大切にしていきたいと思っています。

取材後記

宍戸さんは「一歩一歩」という言葉を家族と共有することで、前を向きながら活動を続けることができたと言います。
取材時も嘆くことはなく、感謝の気持ちやそこで得た学び、新たな出会いなど、ポジティブな側面を多く伺いました。
今回の台風による被災は、ネガティブな影響はもちろんですが、ポジティブな側面でも何かの影響やきっかけをもたらしたのかもしれないと感じました。


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